1997年、世界の金融市場に衝撃を与えた「アジア通貨危機」。
その発端となったのがタイの通貨「バーツ」の急落です。ジョージ・ソロス率いるクォンタムファンドとジュリアン・ロバートソンのタイガーファンドを筆頭とするヘッジファンドがタイを標的に大規模な空売りを仕掛け、ついに政府はドルとの固定相場制(ペッグ制)を放棄せざるを得なくなりました。
この記事では、タイのバブル経済の成れの果て、外貨準備の限界、ヘッジファンドの戦略、そしてIMF支援によるV字回復までを、具体的な数字と事例で徹底的に掘り下げます。
結論:経済の構造的弱点が引き金、空売りは“引導を渡した”だけ
ヘッジファンドの攻撃が危機を早めたのは事実ですが、タイ経済はすでに危機的状況にありました。
- 経常収支の赤字(1995年時点でGDP比−8.02%)
- 不動産バブルと不良債権の増加
- 外貨建て債務の膨張と金融システムの脆弱性
- 固定相場制の維持にこだわった政府の対応の遅れ
これらが重なり、国際投資家の信認を失ったことで通貨危機が現実のものとなったのです。
1990年代前半:アジアの奇跡とその裏側
1984年にドルとの固定相場制を導入したことでタイは経済成長を加速し、年平均9%成長を記録。「アジアの奇跡」と呼ばれました。
しかし、その裏では以下のような歪みが拡大していました:
- 不動産投資の過熱と不良債権の膨張(1996年には住宅・土地・コンドミニアム価格が過去最高)
- 銀行の短期資金調達と長期貸出のアンバランス
- PIBF制度(海外からの短期資金流入を容認)による資本の過剰流入
1996年には輸出成長が6.48%まで急減速、経常収支赤字はGDP比8%に達し、タイ経済の脆弱性が露呈し始めます。
1997年春:ヘッジファンドの動きと第1次攻撃
1997年2月、不動産大手の経営破綻をきっかけに「タイは危ない」という空気が広まり始めました。3月には政府の不良債権買い取り撤回が信認を揺るがし、ついに5月に第1次為替攻撃が開始されます。
- クォンタムファンドやタイガーファンドがバーツの空売りを開始
- BOT(タイ中央銀行)は約380億ドルの外貨準備を投入
- 短期金利は一時1000〜1500%へ
この時点ではヘッジファンドは3000万〜5000万ドルの損失を出し、攻撃は一時停止。しかしこれは本格的攻撃への“準備期間”でした。
1997年7月2日:タイ政府、ついに変動相場制へ移行
6月下旬から再攻撃が開始され、7月1日には政府の介入資金が尽きかけているとの観測が広まり、翌7月2日朝、タイ政府はペッグ制を放棄し変動相場制に移行。
- バーツはその日だけで15〜20%下落、のちに47バーツ/ドルまで下落
- IMFは8月に172億ドルの支援を決定
- 危機はフィリピン、マレーシア、インドネシア、韓国へと波及
危機の教訓とタイのV字回復(1998〜2000年)
IMFの支援により、タイ経済は次のように回復へと向かいました:
- 1998年:GDP成長率−10.5%
- 1999年:+4.2%
- 2000年:+4.8%
バーツ安による輸出主導成長が復活の鍵となり、IMFの構造改革(金融機関の健全化や不良債権処理)が安定の基盤を築きました。
おわりに:空売り攻撃は「引き金」にすぎず、タイ経済の構造改革こそが真の勝因
この事件は、ヘッジファンドによる“悪意の攻撃”と見られがちですが、実態はタイ政府が自らの経済運営の弱点を直視できなかったことが最大の問題でした。
ヘッジファンドの動きは、もはや不可避だった構造崩壊を早めただけとも言えます。そして、IMFの厳しい支援条件を乗り越えたタイの人々の努力が、真の「アジアの奇跡」と言えるのではないでしょうか。
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