第1次世界大戦時のヨーロッパについて、時系列で勢力図を示した動画です。
戦時中の流れや同盟国と連合国の力関係が視覚的に分かりやすい編集になっています。以下に第1次世界大戦の流れについて記載します。
第1次世界大戦の流れ(時系列)
1914年
- 6月28日:サラエボ事件
- 7月28日:オーストリア=ハンガリーがセルビアへ侵攻
- 7月30日:ロシアがセルビアを支援する形で参戦
- 8月1日:ドイツがロシアに宣戦布告して参戦
- 8月2日:ドイツがルクセンブルクへ侵攻開始
- 8月3日:ドイツがフランスに宣戦布告
- 8月4日:ドイツがルクセンブルクを制圧
- 8月4日:ドイツがベルギーに宣戦布告
- 8月4日:イギリスがドイツに宣戦布告
- 8月5日:モンテネグロが同盟国軍に宣戦布告
- 8月20日:ドイツがベルギー首都ブリュッセルを制圧
- 8月23日:ドイツがフランス国境を越えパリへ進軍
- 9月6日:マルヌ回線で連合軍がパリの防衛に成功
- 9月11日:ガリツィアの戦いでロシアが勝利
- 11月11日:オスマン帝国が連合国軍に宣戦布告
- 11月22日:西部戦線で塹壕戦開始、膠着状態へ
1915年
- 5月23日:イタリアがオーストリアに宣戦布告
- 7月22日:オーストリアがガリツィアを奪還
- 8月5日:ドイツがワルシャワを制圧
- 9月19日:ドイツがヴィリニュスを制圧
- 10月14日:ブルガリアがセルビアに宣戦布告
- 11月27日:同盟国軍がセルビアを制圧
1916年
- 1月16日:モンテネグロが同盟国軍に降伏
- 1月16日:同盟国軍がアルバニアを制圧
- 3月9日:ポルトガルがドイツに宣戦布告
- 6月4日:ブルシーロフ攻勢でロシアが勢力圏拡大
- 8月27日ルーマニアがオーストリアに宣戦布告
- 12月6日:ドイツがルーマニア首都ブカレストを制圧
1917年
- 6月27日:ギリシャが同盟国軍に宣戦布告
- 7月19日:ケレンスキー校正で同盟国軍が勝利
- 11月4日:カポレットの戦いで同盟国軍が勝利
- 11月7日:十月革命によりロシア帝国は崩壊へ
1918年
- 2月18日:11日戦争で同盟国軍は勢力圏を大幅拡大
- 9月30日:ブルガリアが連合国軍に降伏
- 10月30日:オスマン帝国が連合国軍に降伏
- 11月3日:オーストリアが連合国軍に降伏
- 11月11日:ドイツが連合国軍に降伏
第1次世界大戦の解説
第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)は、1914年から1918年まで続いた大きな戦争です。
この戦争には、ヨーロッパの多くの国が参加しました。
簡単に言うと、二つの大きなグループに分かれて戦いました。
主なグループ
- 同盟国(どうめいこく)
- ドイツ
- オーストリア・ハンガリー帝国
- オスマン帝国(現在のトルコ)
- 連合国(れんごうこく)
- イギリス
- フランス
- ロシア
- 後にアメリカも参加
戦争のきっかけ
第一次世界大戦のきっかけは、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドがセルビア人の青年に暗殺されたことです。
これが原因で、オーストリア・ハンガリー帝国とセルビアが戦いを始めました。その後、各国が同盟関係に基づいて戦争に巻き込まれていきました。
戦争の様子
戦争は主にヨーロッパの戦場で行われ、多くの兵士が塹壕(ざんごう)という穴にこもって戦いました。
この戦い方は「塹壕戦(ざんごうせん)」と呼ばれ、非常に厳しいものでした。
戦場では新しい武器も使われ、毒ガスや機関銃、戦車などが登場しました。
結果
戦争は1918年に終わり、連合国が勝利しました。戦争が終わると、ドイツは厳しい条件の下で和平条約を結ばされました。
この条約は「ヴェルサイユ条約」といいます。
この条約によって、ドイツは多くの領土を失い、大きな賠償金を支払わなければならなくなりました。
影響
第一次世界大戦の結果、多くの国が経済的に疲弊し、多くの人々が亡くなりました。
また、この戦争は後の第二次世界大戦の原因の一つともなりました。
第一次世界大戦における主要な人物
フランツ・フェルディナンド大公(Franz Ferdinand)
フランツ・フェルディナンドは、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子でした。
彼の暗殺が第一次世界大戦の直接的な引き金となりました。
1914年6月28日、彼と妻のゾフィーがボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォでセルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されました。この事件により、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、戦争が始まりました。
ウッドロウ・ウィルソン(Woodrow Wilson)
ウッドロウ・ウィルソンは、第一次世界大戦中のアメリカ合衆国の大統領でした。
彼は1917年にアメリカを戦争に参戦させ、連合国側の勝利に大きく貢献しました。
また、戦後の平和構築のために「十四か条の平和原則」を提案し、国際連盟の設立を推進しました。彼の理想主義的な外交政策は、後の国際関係に大きな影響を与えました。
ポール・フォン・ヒンデンブルク(Paul von Hindenburg)
ヒンデンブルクは、ドイツ帝国の軍人であり、第一次世界大戦中に東部戦線での勝利に貢献しました。
特に、タンネンベルクの戦いでのロシア軍に対する大勝利が有名です。
彼は戦争の終盤にドイツ軍の最高司令官となり、戦後はドイツの大統領にもなりました。ヒンデンブルクの影響力は戦争後も続きました。
ダグラス・ヘイグ(Douglas Haig)
ヘイグは、第一次世界大戦中のイギリス軍の指導者でした。
彼は西部戦線での主要な戦い、特にソンムの戦いとパッシェンデールの戦いで指揮を執りました。これらの戦いは非常に多くの犠牲者を出しましたが、ヘイグの戦略は連合国の最終的な勝利に貢献しました。
ニコライ・ニコラエヴィッチ(Nikolai Nikolaevich)
ニコライは、ロシア帝国の将軍であり、第一次世界大戦の初期に東部戦線でロシア軍を指揮しました。
彼はロシア軍の大規模な動員を指導し、初期の戦闘でオーストリア・ハンガリー軍に対していくつかの勝利を収めましたが、最終的にはドイツ軍に対して劣勢に立たされました。
アーサー・カリー(Arthur Currie)
アーサー・カリーは、カナダ軍の指揮官であり、第一次世界大戦中にカナダ軍の主要な戦いを指揮しました。
特にヴィミー・リッジの戦いでは、カナダ軍が大きな勝利を収め、その指導力が評価されました。カリーは計画的で慎重な戦術を駆使し、多くの兵士の命を救いました。
エーリヒ・ルーデンドルフ(Erich Ludendorff)
ルーデンドルフは、ドイツ帝国の軍人であり、ヒンデンブルクとともにドイツ軍の最高指導者として知られています。
彼は戦争の後半でドイツ軍の戦略的な決定を行い、春季攻勢(1918年)の計画と実行に重要な役割を果たしました。しかし、最終的には戦争に敗北し、ドイツの敗北の責任の一部を負いました。
ジョン・パーシング(John J. Pershing)
パーシングは、アメリカ遠征軍(AEF)の指揮官であり、アメリカ軍のヨーロッパ戦線での活動を統括しました。
彼の指導のもと、アメリカ軍はフランスに到着し、連合国の戦力を大きく強化しました。特にムーズ=アルゴンヌ攻勢では、パーシングの指揮によって大きな成果を上げました。
フェルディナンド・フォッシュ(Ferdinand Foch)
フォッシュは、フランスの元帥であり、連合国軍の総司令官を務めました。
彼は戦争の最終局面で連合国軍を指揮し、ドイツ軍に対する反攻を成功させました。フォッシュの戦略的な指導力は、連合国の勝利に大きく貢献しました。
マヌエル・フェルナンデス・デ・ヴィラロン(Manuel Fernández de Villalón)
ヴィラロンは、スペインの外交官であり、戦争中に中立国としてのスペインの立場を維持するために重要な役割を果たしました。
彼の外交努力により、スペインは戦争に直接参戦せず、戦争後の国際的な関係を安定させるための橋渡し役となりました。
ロレンス・オブ・アラビア(T.E. Lawrence)
トマス・エドワード・ロレンス、通称「ロレンス・オブ・アラビア」は、イギリスの将校であり、第一次世界大戦中にアラビア半島でのアラブ反乱を支援しました。
彼の指導と戦略により、オスマン帝国に対するアラブの独立運動が成功し、戦後の中東の地図に大きな影響を与えました。
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