本記事は、YouTube動画『北方領土は、なぜ返ってこないのか』の内容を基に構成しています。
北海道・根室半島のすぐ先に位置する北方領土。歯舞群島の一部は北海道本島から肉眼でも確認できるほど近い場所にあります。
それにもかかわらず、北方領土問題は第2次世界大戦の終結から80年以上が経過しても解決していません。
一般的には「ロシアが領土を返したくないから」と考えられがちですが、問題はそれほど単純ではありません。1956年の日ソ共同宣言では、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本へ引き渡すことが国際約束として明記されました。つまり、少なくとも戦後のある時点では、島が日本へ引き渡される可能性が現実に存在していました。
しかし、その後の冷戦、日米同盟、ロシアの軍事戦略、島に暮らす住民、さらにロシア国内の法制度やウクライナ侵攻などが重なり、北方領土問題は単なる「領土の返還交渉」では説明できないほど複雑な問題へ変化していきました。
今回は、北方領土がなぜ日本へ返ってこないのか、その歴史と地政学的な背景を詳しく見ていきます。
北方領土とはどこなのか
北方領土とは、北海道の北東に位置する次の4つの島・島々を指します。
歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島です。
現在はいずれもロシアが実効支配していますが、日本政府は4島を「日本固有の領土」と位置付けています。日本政府の現在の立場では、1951年のサンフランシスコ平和条約で日本が放棄した「千島列島」に北方4島は含まれないとされています。
この「北方4島と千島列島をどう区別するのか」が、北方領土問題を理解するうえで非常に重要なポイントになります。
北方4島と日本の関係は江戸時代までさかのぼる
日本とロシアの国境が初めて条約によって正式に確認されたのは1855年です。
日本とロシアは日魯通好条約を締結し、国境を択捉島と、その北にあるウルップ島の間と定めました。
日本政府によれば、日本はロシアに先んじて北方4島を調査し、遅くとも19世紀初頭には実効的な支配を確立しており、日魯通好条約はすでに事実上存在していた国境を確認したものとされています。
さらに1875年には、日本とロシアの間で樺太千島交換条約が結ばれました。
日本は樺太全島に対する権利を放棄する代わりに、ロシアからウルップ島より北にある千島列島18島を譲り受けます。
ここで重要なのは、条約で日本へ譲渡される島として列挙された18島の中に、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島が入っていないことです。
日本政府はこれを、北方4島は交換によってロシアから取得した領土ではなく、それ以前から日本領だったことを示す根拠の1つとしています。
その後、北方4島では漁業を中心に生活圏が形成され、学校や郵便局、行政機関なども整備されていきました。
戦前には約1万7000人の日本人が北方4島で暮らしていました。
しかし、1945年、その生活は大きく変わることになります。
北方領土問題の原点となった1945年のソ連参戦
北方領土問題を理解するためには、第2次世界大戦末期の国際情勢を見る必要があります。
日本とソ連の間では1941年に日ソ中立条約が締結されており、双方が互いに攻撃しないことを約束していました。
しかし、その裏側では米国、英国、ソ連による別の取り決めが進められていました。
1945年2月、米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン首相がヤルタで会談し、ソ連が対日戦へ参加することなどを内容とする秘密協定が結ばれました。
そして1945年8月9日、ソ連は対日参戦します。
日本は8月14日にポツダム宣言の受諾を決め、8月15日に昭和天皇による玉音放送が行われました。
しかし、ソ連軍はその後も千島列島方面への進軍を続けます。
ソ連軍は8月18日から千島列島への攻撃を開始し、8月28日以降には北方4島への進出を開始しました。日本政府によれば、遅くとも9月5日までに北方4島すべてがソ連軍によって占領されました。
つまり、日本がポツダム宣言を受諾して降伏の意思を示した後にも、ソ連軍による占領が進んだことになります。
その後、ソ連は北方4島を自国領へ一方的に編入し、島に残っていた日本人も1948年までに日本本土へ引き揚げさせられました。
こうして現在まで続くロシアによる実効支配が始まりました。
サンフランシスコ平和条約が生んだ「千島列島」の解釈問題
戦後の北方領土問題をさらに複雑にしたのが、1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約です。
この条約によって、日本は千島列島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄しました。
問題は「千島列島がどこまでを指すのか」です。
現在の日本政府は、北方4島はこの条約で放棄した千島列島には含まれないとの立場を取っています。
ただし、戦後直後から現在まで日本政府の説明が完全に同じだったわけではありません。
1951年10月の国会では、西村熊雄外務省条約局長が、サンフランシスコ平和条約における千島列島には「北千島と南千島」が含まれ、当時「南千島」と呼ばれていた国後島と択捉島も含まれる趣旨の答弁をしています。一方で歯舞群島と色丹島については千島列島に含まれないとの説明でした。
その後、日本政府は歴史的経緯などを踏まえ、国後島・択捉島を含む北方4島はいずれもサンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島には含まれないという現在の立場を明確にしていきました。
この政府解釈の変遷は、北方領土問題をめぐる議論でしばしば重要な論点となっています。
1956年、北方領土返還は現実になりかけていた
北方領土問題の歴史で非常に重要なのが1956年の日ソ共同宣言です。
日本とソ連は第2次世界大戦後も正式な平和条約を締結できずにいましたが、1956年に交渉を進め、日ソ共同宣言によって戦争状態を終了し、国交を回復しました。
その中には非常に重要な内容が盛り込まれています。
ソ連は「平和条約締結後に歯舞群島及び色丹島を日本へ引き渡す」ことに同意したのです。
日ソ共同宣言は日本とソ連双方で批准されており、単なる政治家同士の口約束ではなく、現在も法的拘束力を持つ国際約束と日本政府は位置付けています。
つまり、北方領土が「絶対に返ってこない領土」だったわけではありません。
少なくとも歯舞群島と色丹島については、日本へ引き渡すことが正式な文書に記されていました。
米国の存在が日ソ交渉をさらに複雑にした
しかし1956年当時、世界は冷戦の真っただ中でした。
北方領土交渉も日本とソ連だけで完結する問題ではありませんでした。
当時の米国国務長官ジョン・フォスター・ダレスと重光葵外相の会談記録には、日ソ交渉と沖縄問題を結び付けた米国側の強い圧力が記録されています。
1956年8月の米国政府記録によると、ダレス国務長官は、日本がソ連に千島列島の主権を認めるのであれば、米国も琉球諸島に対する主権を主張し得るとの考えを重光外相に示しました。また、ソ連が千島列島を得るのであれば「米国が沖縄に永久にとどまる可能性」を日本側がソ連に伝えることも提案しています。
動画で触れられている、いわゆる「ダレスの恫喝」と呼ばれる問題です。
ただし、これだけを理由に「米国が2島返還を潰した」と単純化するのは注意が必要です。
同じ米国政府文書では、米国は択捉島、国後島、歯舞群島、色丹島を日本領と認める立場も示していました。
北方領土交渉には、日本政府の方針、ソ連の要求、そして冷戦下における米国の安全保障戦略が複雑に絡み合っていたと考える方が実態に近いでしょう。
1960年の日米安保改定でソ連の態度が硬化
1956年の日ソ共同宣言後も、歯舞群島と色丹島の引き渡しは実現しませんでした。
大きな転機となったのが1960年の日米安全保障条約の改定です。
ソ連は日本に対し、歯舞群島と色丹島を引き渡す条件として、日本から外国軍隊が撤退することを新たに要求しました。
日本政府はこれに対し、国際約束である日ソ共同宣言をソ連が一方的に変更することはできないと反論しました。
ここから北方領土問題は、ますます日米同盟と米ソ冷戦の構造に組み込まれていきます。
北方領土の価値は「島」から「海」へ変わった
ロシアが北方領土を手放しにくい理由として非常に重要なのが、地政学上の価値です。
特に重要なのがオホーツク海です。
ロシアにとってオホーツク海は単なる漁場ではありません。ロシア海軍の戦略原子力潜水艦が活動する重要海域であり、ロシアの核抑止力とも深く関係しています。
そのためロシアは、千島列島周辺の軍事力を長年にわたり強化してきました。
択捉島と国後島には沿岸ミサイルが配備され、択捉島にはSu-35戦闘機が配備されたと報じられています。また2020年には、両島への地対空ミサイルシステム「S-300V4」の配備がロシア国防省系メディアによって伝えられました。
つまり北方領土の価値は、単純な島の面積だけでは測れません。
千島列島はオホーツク海と太平洋を隔てるように並んでいます。
国後島や択捉島をめぐる問題は、その周囲の海峡やオホーツク海へのアクセス、安全保障環境と密接につながっています。
「島そのものではなく、島の先にある海が重要」という地政学的な視点から見ると、ロシアが北方領土を軍事上重要視する理由が分かりやすくなります。
ウクライナ侵攻で北方領土の軍事環境にも変化
興味深いことに、ロシアによるウクライナ侵攻は北方領土の軍備にも影響を与えています。
防衛省の2025年版防衛白書では、択捉島と国後島に配備されていた「S-300V4」がウクライナ侵攻以降に確認されなくなったとしています。
防衛省は、これらがウクライナで使用するため転用された可能性があるとみています。
ただし、これによって北方領土交渉が容易になったわけではありません。
北方領土問題を難しくしているのは軍事的価値だけではないからです。
2020年のロシア憲法改正が新たな壁に
大きな転換点となったのが2020年です。
ロシアでは憲法改正が行われ、ロシア領土の一部を譲渡する方向の行為を認めない趣旨の規定が盛り込まれました。
プーチン大統領自身も憲法改正後、国境や領土に関する規定の重要性に言及しています。
この改正は北方領土交渉にとって大きな政治的・法的ハードルとなりました。
もっとも、「憲法改正によって北方領土返還が法律上完全に不可能になった」と言い切るのは正確ではありません。国境画定に関する例外も設けられているためです。
それでも、自国領土の割譲を否定する原則が憲法レベルで強化されたことは、ロシア政府が国内向けに領土譲渡を説明することを以前より難しくしたと考えられます。
動画でいう「返したくない領土から、返せない領土へ」という表現は、この政治的な変化を端的に表したものといえるでしょう。
2018年には再び交渉が動き始めていた
一方、2020年以前には日露交渉が再び前進する可能性もありました。
2018年11月、安倍晋三首相とプーチン大統領は、1956年の日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を加速させることで合意しました。
その後も両国はこの方針を確認しながら交渉を続けました。
1956年の「歯舞・色丹引き渡し」という枠組みが、60年以上を経て再び外交交渉の中心に浮上したことになります。
しかし、その流れも長くは続きませんでした。
2022年のウクライナ侵攻で平和条約交渉が停止
決定的な転機となったのが、2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻です。
日本はG7各国と歩調を合わせ、ロシアに対する経済制裁を実施しました。
これに対してロシア政府は2022年3月、日本との平和条約交渉を継続しないと発表しました。
さらに、北方4島の元島民らが参加してきた自由訪問や四島交流を中止し、北方4島における共同経済活動の協議からも離脱しました。2022年9月には、自由訪問と四島交流に関する合意の効力を停止しています。
日本政府は現在も「北方四島の帰属の問題を解決し、平和条約を締結する」という基本方針を維持していますが、ロシア側は平和条約交渉の再開に応じていません。
こうして北方領土問題は、戦後の日露関係だけでなく、ウクライナ戦争を含む国際安全保障問題とも強く結び付くことになりました。
なぜ日本は今も北方領土の領有権を主張し続けるのか
これほど交渉が難しいのであれば、「日本はなぜ領有権を主張し続けるのか」と疑問に思うかもしれません。
まず重要なのは、日本政府が現在も北方4島を日本固有の領土と位置付けていることです。日本が自ら領有権の主張を取り下げれば、自国の外交上の立場を自ら弱めることになります。
国際法上も、領土問題では当事国が継続して抗議し、自国の権利を主張しているという事実が重要になる場合があります。
ただし、「一定期間主張しなければ自動的に領土を失う」という単純なルールがあるわけではありません。
それでも、日本政府が一貫して北方領土問題の解決を外交目標として掲げ続けることには、将来の交渉可能性と日本の法的・外交的立場を維持する意味があります。
北方領土をめぐるもう1つの価値は豊かな海
北方領土問題には安全保障だけでなく、経済的な側面もあります。
北海道東部から千島列島にかけての海域は寒流と暖流が交わる豊かな漁場として知られ、サケ・マス、タラ、昆布、カニなど多くの水産資源があります。
さらに領土問題は、島そのものだけではなく、その周囲の領海や排他的経済水域(EEZ)とも関係します。
つまり北方領土問題は、「数個の島をどちらの国が所有するのか」というだけの問題ではありません。
漁業資源、海洋資源、安全保障、海上交通など、周辺海域全体の権益が関係しています。
時間が経つほど北方領土問題は難しくなる
北方領土問題のもう1つの大きな壁が「時間」です。
戦争終結から80年以上が経過し、元島民の高齢化が急速に進んでいます。
政府広報によれば、北方4島から故郷を追われた元島民の平均年齢は2025年3月末時点で89歳を超えています。
一方、島では戦後生まれのロシア人が何世代にもわたって生活してきました。
仮に領土を引き渡す場合でも、そこに暮らす住民の権利や生活、行政制度、インフラ、安全保障をどう扱うのかという現実的な問題が生じます。
時間が経てば経つほど、領土問題は歴史的な権利だけで解決できない問題になっていくのです。
北方領土が返ってこない最大の理由とは
北方領土問題を振り返ると、1つの原因だけで現在の状況を説明することはできません。
1945年のソ連による占領から始まり、1951年のサンフランシスコ平和条約、1956年の日ソ共同宣言、冷戦下の日米関係、1960年の日米安保改定、ロシアのオホーツク海防衛戦略、2020年のロシア憲法改正、そして2022年以降のウクライナ戦争まで、複数の要因が積み重なっています。
特に重要なのは、北方領土の意味そのものが時代とともに変化してきたことです。
戦後直後には主として「どちらの国に帰属するのか」という領土問題でした。
しかし冷戦が進むと、北方領土はオホーツク海を守る軍事拠点としての意味を強めました。
さらに現在では、日米同盟、ロシアの核戦略、ウクライナ戦争、ロシア国内法などが絡み合う安全保障問題へと変化しています。
まとめ
北方領土が80年以上にわたって日本へ返ってこない理由は、単純に「ロシアが返したくないから」だけでは説明できません。
1855年の日魯通好条約では択捉島とウルップ島の間に日露国境が確認され、1875年の樺太千島交換条約でも北方4島はロシアから譲り受ける18島には含まれていませんでした。現在の日本政府は、こうした歴史を根拠に北方4島を日本固有の領土と位置付けています。
1945年にはソ連軍が北方4島を占領し、その後ソ連、そしてロシアによる実効支配が続きます。
それでも1956年の日ソ共同宣言では、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本へ引き渡すことが正式に約束されました。
しかし、冷戦と日米同盟によって交渉は複雑化し、北方領土自体もロシアにとってオホーツク海を守る重要な軍事拠点となりました。
2018年には日ソ共同宣言を基礎として平和条約交渉を進める動きが再び生まれましたが、2020年のロシア憲法改正によって領土譲渡の政治的ハードルが上がり、2022年のウクライナ侵攻をきっかけに平和条約交渉そのものが停止しました。
北方領土問題は、もはや過去の条約だけを読み解けば解決できる問題ではありません。
戦後外交、冷戦、日米同盟、ロシアの軍事戦略、島の住民、国内法、そして現在の国際情勢が重なった問題です。
かつて「返還の可能性がある領土」だった北方領土は、時間の経過とともに、ロシア側から見ても極めて手放しにくい領土へと変化してきました。
そして交渉が止まっている間にも元島民の高齢化は進んでいます。
北方領土問題がなぜ80年以上解決しないのか。その答えは1つの出来事にあるのではなく、戦後80年の国際政治そのものが積み重なった結果だといえるでしょう。


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